人間に欠点や短所がある本当の理由

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欠点や短所は自分のイヤな所だから、ないほうがいいとずっと思っていました。

今もまだ「あーあ↷」って思うこといっぱいあるけどね。

自分の欠点が許せなくて自己否定するのは、「欠点があると愛されない」という怖れがあるからです。

ただ、この「欠点があると愛されない」という思考はたいていは自分の思い込み

しつけが厳しいお家だったとか、職場の上司がミスの指摘ばかりする人で大変な思いをしたとか、昔の男がモラハラ気味だったとか、様々な理由で私たちは自分の欠点を否定して直そうとするようになりますが、

現実には、

「またお前か~(笑)」「ごめん、てへぺろ」みたいなノリで許されてしまう、完璧主義を自負する私ににしてみればなんとも理解しがたい謎の人種が意外と身近に存在するもので、

欠点がある=愛されないという図式は、必ずしも成立しないんだなぁということをしみじみ感じる今日この頃です。

だからこそ、私を含め、”欠点がある自分”を受け入れられずに苦しんでいる人には、
欠点がある自分を一番嫌っているのは他でもない自分自身だということに気が付いて欲しいと思うし、「欠点があっても人に嫌われない」という新しい思考を取り入れることが大切になってくるのです。

それによって、自分に欠点があっても大丈夫だと思えたり、短所だと思っていたものが実は長所でもあったことに気がついたりして、

「そういう自分でもまぁいいか、それが自分だしな」と思えるようになり、良い/悪いというジャッジに左右されない自己受容ができるようになるわけです。

私もかつては自分の欠点や失敗を見つけては落ち込み、「存在する価値がない」とさえ思っていたし、

かと言って欠点を無くすための努力をたいしてするわけでもないので、「やっぱり私は怠け者でダメ人間なんだ」と自己否定と自己嫌悪のループから抜け出せないでいたのですが、

今は自分がポンコツであることをようやく認めることができて(負けを認める、白旗を揚げる、とも言います)、「ま、それが私やな。」といい意味で自己受容できていると思います。

結局は自分にできることしかできないんだから、「ポンコツはポンコツなりにやっていくであります!」みたいな感じで、目の前のことをひとつひとつやっていくしかないよねという穏やかな気持ちで毎日を送ることができています。

すると、些細なコトで自分を否定する必要がなくなって気持ちがすごくラクになりました。

で、そうやって自分を許すことができるようになると、他人のことも大目に見て受け流すことができるようになったり、素直に感謝する心が出てきたり、なんならちょっと頑張ってやってみようかな、なんて気持ちが湧いてきたりするから、ほんと人間の心って不思議なものです。

もし仮に誰かに対してイラっとすることがあっても、「まぁ、相手には相手の事情があるんでしょうな」と自分の感情をコントロールできるので、不快な気持ちを引きずらないでいられますし、

何より、エネルギーが無駄に消費されないので心にゆとりを持てるようにもなりました。

まぁ、そうは言っても、
欠点があっても大丈夫だなんて、そんなすんなりとは納得いかないですよねー。

わかります、わかりますとも(-“-)

私が過去に、「言ってることは頭ではわかるけどぉ…」と悶々としていた頃、こういう言葉を聞きました。

「人は長所を使って人を愛し、短所の部分で人から愛される」

長所は、人を助け人を喜ばせるために持っているもの。
反対に短所や欠点は、(乱暴な言い方ですが)それが得意という人を活躍させてあげるためのもの。(と言うと伝わりますか?)

もう少し平たく言うと、
人を助けようとする時に、わざわざ苦手なことを使わんでもええんとちゃう?ってことです。
得意な面で人の役に立って、苦手な面は誰かに助けてもらっていいんです。

お互いさまとか、持ちつ持たれつといった言葉があるくらいですし。

そんな風に考えると、自分の欠点や短所だって誰かの役にたっていると言えなくもないと思いませんか?

例をひとつ。

私の知り合いに、少しおっちょこちょいでパソコン操作が苦手な人がいて、普通に使っていただけ(と本人は言い張る)なのに、何かの拍子に手が当たるんでしょうかね、ふと気が付くと変な改行になってしまうとか文字化けするとか、ちょっとしたトラブルがちょいちょい起きるんです。

で、「またやっちゃった!助けて~」と助けを求めてくるんです。

中にはうんざりした感じの人もいましたけど、普通に使っていただけでは決して起こりえない設定変更が発生しているのを見てほとんどの人は「なんでこうなった!!!」「まったくもう!」と笑いながら一緒にパソコンと格闘してあげるし、設定が戻れば助けた人はヒーローです。なんならその場全体がほっこりした雰囲気になったりもするわけです。

で、当の本人は皆から迷惑がられているかと言うと全然そうではない。
どちらかと言うと「あいつはあーゆーところがあるからなぁ」と、”その人らしさ”として受け止められています。

それが彼のお約束、キャラだよね、みたいに。

また彼は彼で、一目置かれる部分を持っていて、その分野では気持ちよく力を貸してくれるし、皆から頼りにされてもいました。

こんな風に、自分の短所は誰かの長所を輝かせる部分でもあるということと、短所があっても嫌われるわけではないということ、そして、自分が短所だと思っていても相手はそこまで気にしていない場合もある、といったことを、この人を見ていて腑に落ちたわけです。

結局は、自分が自分をどう見ていて、それをどう解釈しているかなんだな、って。

人間は誰もが不完全な存在。
というか、不完全であることが自然なんです。

誰かの”凸”と誰かの”凹”がパズルのようにかみ合いながら社会は成立しています。

自己否定して自分の凹=短所を無くしてしまうのは、誰かの長所とつながるフックを消すことに他なりません。

誰の助けも借りない、誰にも頼らない。自分一人で完璧にこなす。
それが行きつく先は、孤独です。

誰かに愛されたくて欠点を直そうとしたはずのに、これでは逆効果。

それよりも、凸=長所をどう使って誰をどういう風に喜ばせられるかな、そのために自分の凸をどう磨いてどんな色に光らせようかな、誰に届けようかな、って考えるほうがはるかに建設的でわくわくする人生になるんじゃないかな、と思っています。

この記事を書いた人
あべ先生

公認心理師、特別支援教育士、AGOメソッド®セラピスト、教育学修士。
障害児教育を専門に学び、公務員心理職として教育委員会に10年以上勤務、延べ3,500件の発達相談に対応。不眠を訴えるクライアントがボディケアで眠れるようになった経験をきっかけに、心の問題に対する体へのアプローチの有効性に関心を持つ。現在は、心理カウンセリングと自律神経を調整するセラピーを併用し、心と体をトータルにケアするサービスを提供している。

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